
私が学校で生徒と話したり授業をしたりしていると、時々驚くほど話が通じないことがあります。
それは、単に年齢が違うとか、教師と生徒という立場の違いとか、単純な理由ではありません。
また、学力が圧倒的に不足している生徒に必要なものを考えたとき、やはり彼らに共通しているものがあると感じました。
このような、私が教師として漠然と感じていたことを明確に言語化していたのが、石井光太さんの『ルポ 誰が国語力を殺すのか』という書籍でした。
タイトルには「国語力を殺す」という衝撃的な言葉が使われており、筆者の危機感が伝わってきます。
内容も、衝撃的な「ごんぎつね」の授業風景から始まります。
学校教育関係者として非常に興味深い内容で、一気に読んでしました。
この記事では、書籍を参考に、現代日本の子供達に欠如しているものとそれが欠如している理由について私が考えたことを書いていこうと思います。
書籍の一部しか引用していませんので、興味を持った方はぜひ購入して読んでみてください。
教育関係者は、感覚的にわかっていたことを言語化してくれているので、思考の整理に役立つと思います。
また、教育関係者でない方も、現代日本の抱える問題の原因を知ることができる1冊です。
目次
「ごんぎつね」想像力を持たない子供達〜鍋で煮られているのは?〜

書籍の中の冒頭、舞台は都内のある公立小学校。
4年生の国語の「ごんぎつね」の授業を筆者が参観したときのエピソードから始まります。
子供達が話し合いをしているのは、主人公のきつね「ごん」が兵十という男性の母親の葬儀を見かけるシーンです。
そこでは、村人が大きな鍋で料理をしています。
本文では「大きななべの中では、何かぐずぐずにえていました」と書かれています。
常識的に読めば、葬儀の参列者のための食事を作っていると想像できます。
しかし、子供達は次のように答えたそうです。
石井光太『ルポ 誰が国語力を殺すのか』序章より抜粋
- 「この話の場面は、死んだお母さんをお鍋に入れて消毒しているところだと思います」
- 「私たちの班の意見は違います。もう死んでいるお母さんを消毒しても意味がないです。それより、昔はお墓がなかったので、死んだ人は燃やす代わりにお湯で煮て骨にしていたんだと思います」
- 「昔もお墓はあったはずです。だって、うちのおばあちゃんのお墓はあるから。でも、昔は焼くところ(火葬場)がないから、お湯で溶かして骨にしてから、お墓に埋めなければならなかったんだと思います」
- 「うちの班も同じです。死体をそのままにしたらばい菌とかすごいから、煮て骨にして土に埋めたんだと思います」
この学校は「学力レベルとしてはごく普通の小学校」だと筆者はいいます。
さらに「似たような場面に出くわしたのは一度や二度ではなかった」と続けています。
筆者は、この子供たちに欠けているものは「読解力以前の基礎的な能力だ」と述べています。
具体的には「登場人物の気持ちを想像する力とか、別の事を結び付けて考える力とか、物語の背景を思い描く力などです。自分の考えを客観視する批判的思考もそうでしょう」と書いています。
この学校の校長先生の言葉として次のような言葉が紹介されています。
「今の子は知識の暗記や正論を述べることだけにとらわれて、そこから自分の言葉で考える、想像する、表現するといったことが苦手なので、国語に限らず、他の教科から日常生活までいろんな誤解が生じ、生きづらさが生まれたり、トラブルになったりしてしまうのです。言ってしまえば、子供たちの中で言葉が失われている状態なのです。」
石井光太『ルポ 誰が国語力を殺すのか』序章より抜粋
想像力の原泉は「言葉」〜言葉はよりよく生きるための手段〜

人間は、簡単なことは感覚や映像で「思いつく」ことができます。
しかし、人間がじっくりと深く考えるときや複雑で抽象的なことを考えるときは、頭の中で言葉を使います。
従って、言葉を知らなければ思考ができず、思考できなければ、相手のことや見知らぬことなどを想像することができません。
また、言葉を知らなければ、自分の気持ちや考えたことを表現することができません。
言葉は、考えて想像して伝えるという、生きるための基礎を支える道具です。
多くの言葉を知っている人ほど、複雑に細やかに思考し、想像し、表現することができます。
しかし、不登校になったり、引きこもったり、非行に走ったりと「生きづらさ」を抱えている人の多くは「言葉」を失ってしまっていると筆者は述べています。
本書の中には、「ウザ」「ヤバ」「死ね」といった極度に簡略化した鋭い言葉に、全ての気持ちを乗せてしまって、問題を起こしている子供達が描かれていました。
彼らは「言葉を失って」いるのです。
子供達はなぜ言葉を失った?〜疲弊するニッポン社会のひずみ〜

『ルポ 誰が国語力を殺すのか』の中では、子供達が言葉を失った理由として次のようなものを挙げています。
- 家庭環境
- 教育政策
- 学校現場の多忙
- ネット、ゲーム
しかし、筆者はそれらを批判しているわけではありません。
事実として提示するという客観的な明晰な姿勢で書かいています。
私も、「自分の言葉で考える、想像する、表現する」といったことは、学校教育だけではどうしようもない部分があるのは事実だと思います。
言葉の獲得は、教科書だけではありません。
例えば、次のような「乳幼児期からの体験や経験」といった「家庭教育」が言語の獲得には大きな役割を果たします。
- 親の言葉かけや関わり
- 他者とのコミュニケーション
- 社会体験
- 読み聞かせ
筆者は「9歳くらいまでの家庭環境がどれだけ重要かがわかる」と書いています。
学校に入る前から「教育」は始まっているのです。
例えば、次のようなものが学校教育の基礎になると私は考えています。
- 生まれてから乳幼児期の言葉掛け、関わり
- 習い事など教育の機会の提供
- 外遊びなど学校以外の経験の積み重ね
- 親や家族などとの日常の会話からの学び
しかし、これらは学校で教えることはできません。
両親だけでなく、家族や親戚、それに近い人との交流により、体験的に学びとるものです。
それでは、すべての家庭がもっと教育に力を入れるべきだというと、それができない現状があります。
現代社会の家庭は多様化しています。
貧困や虐待、情報格差。
ヤングケアラーや日本語が不自由な外国籍の親の子供も存在も助けが必要です。
多くの人が生きることに必死で、子供に構いたくても構えない状況もあります。
私が担任した子供たちも親も、一生懸命生きているけれどうまくいかないという人が多いと思います。
家庭教育がうまく働かない以上、政府や行政による社会保障の充実、企業による労働環境の改善が必要なのです。
終わりに〜構造的に閉塞した日本の教育を打破する方法〜

せめて学校教育が頑張りたいと思いますが、正直、学校の先生たちはもう限界で働いています。
本書の中でも学校の多忙は描かれていますが、仕事内容は増える一方。
しかし、日本の教育支出はOECD加盟国の中でも最低ランク。
「定額働かせ放題」とはよくいったものだと思います。
日本の教育は、構造的に閉塞してしまっているのが現状です。
お金があれば多くのことが解決できます。
教員数を増やしたり、子供に直接関わらない仕事を外部委託したりすれば、教員は子供にしっかり向き合う時間を取れます。
もう学校や教員の努力だけではどうすることもできないのは紛れも無い事実。
そろそろ政府もそのことに真っ向から取り組む必要があります。
教育関係者が疲弊してこの国の教育が完全に潰れてしまう前に、政府には大胆な改革を期待するばかりです。
現代社会に求めれられる「教育」とは、学校や家庭にまかせるのではなく、社会や行政や政府などの大きな力が経済面で支える教育だと思います。